そこで新聞も独自のウェブ版発行を始めたわけだが 安心はできない

新聞の取材力 報道・評論に対する信頼性はまだまだ群を抜いている

このような歴史的変化のなかで、新聞広告はどのように変わるべきか、自己変革を迫られている。おそらく、大型の紙のディスプレー・アド(広告)としての有利さは今後も維持し続けるべきだろう。だが、それをデジタル空間でただ披露するだけではなんの芸もない。新たに必要となるのは、自紙読者の消費者としての特性を広告主にアピールし、彼らが求めるものの販売・送達を手助けすることであろう。それは新聞社インターネット事業の重要な一部となるはずであり、また、販売部門との協力も必要とされるだろう。

一方、士族、知識人向き漢文体の当時の新聞に対し、女性や子供、町人を対象に平仮名を用い、漢字には振り仮名つき、政論よりも通俗的な社会ダネを重視した小型新聞も現れ(小新聞(こしんぶん)とよばれた)、人気を集めた。代表的なものが1874年(明治7)11月創刊の『読売新聞』で、1879年1月大阪で創刊された『朝日新聞』もこの系統の新聞である。

フランスでは高級紙としては、最古の『フィガロ』Le Figaro(1854年創刊。保守系)、夕刊紙『ル・モンド』Le Monde(1944年創刊。中道左派系)の競合・共存状況が長く続いたが、反体制運動の起きた1973年、J・P・サルトルらによって『リベラシオン』Libération(急進左派系)が創刊された。また、戦前からの共産党系紙『ユマニテ』L’Humanité(1904年創刊)も健在である。これらパリ紙のほか、ノルマンディ、プロバンスなど多くの地方に特色ある地方紙が存在したが、自動車専門誌経営から身を起こしたロベール・エルサンRobert Hersant(1920―1996)は地方紙のチェーン化に乗り出し、ついに1975年、名門『フィガロ』を傘下に収め、メディア独占の批判を浴びる存在となった。戦後の西ドイツは、ナチスの集権体制を反省し、州(Land)の自立化を強め、その結果、各州・地方都市に有力な地方紙が育った。その代表的な存在が『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』Frankfurter Allgemeine Zeitung(1949年創刊)である。しかし、ドイツでも資力にものをいわせるアクセル・シュプリンガーが、大衆紙『ビルト』Bildを創刊(1952)、さらに高級紙『ディ・ウェルト』Die Weltを買収(1953)、これをてこに新聞チェーンと出版を含む巨大なメディア・コンツェルンをつくりあげていった。また、イタリアではベルルスコーニが1974年、地方テレビ局の経営に着手し、これを足がかりに1977年に日刊紙『イル・ジョルナーレ』Il Giornale(1974年創刊)や大手出版社も買収して、「メディア王」に成り上がり、21世紀初頭には政治家としても威勢を誇った。

1950年代までの新聞製作は、グーテンベルク以来の活版技術を、そのまま体現するものであった。文選工が金属活字を拾い、これを植字工がページに組み、それから取った紙型(紙製の鋳型)に印刷工が熱した鉛を流し込んで鉛版=凸版印刷版を作成し、輪転機に取り付けて印刷するという、手間暇のかかる作業の集積であった。だが、それが1960年代には急変する。まず、手書き原稿を漢字テレタイプで印字するようになる。すると同時に符号化テープができ、これをモノタイプにかけると、自動的に記事組み版ができる。さらにこのテープを自動写真植字機にかければ、金属活字を介さず、すぐ印画紙・フィルムに記事組みがつくれることになった。これを1ページ大に貼りあわせれば、あとは写真的方法で、オフセット印刷版(突起部にインキを付ける凸版印刷版とは異なり、平らな版面の上に、油性インキを吸着する撥水(はっすい)性部分と、インキをはじく親水性部分とができる印刷版=平版印刷版)がつくれる。これによって1980年代初頭には新聞製作は、ホットタイプ=熱を用いた金属活字・印刷版方式が駆逐され、コールドタイプの上に成り立つものとなった。

第四はグローバリズムによる影響の問題である。インターネットにこれまでにない商機を発見し、これを新型情報事業に利用し始めたのは、インターネット・情報サービスのヤフーYahoo!、情報検索サービスのグーグルGoogle、通信販売のアマゾンAmazonなどのほうが早い。彼らはその展開にあたって、新聞・通信社のデジタル・コンテンツ提供にまで手を染め、これを放置すれば、既存メディアは彼らのためのコンテンツ・サプライヤー(供給者)に転落するおそれがあった。そこで新聞も独自のウェブ版発行を始めたわけだが、安心はできない。彼らは国境を越え、世界中でコンテンツの収集・流通を行う能力をもち、市場・経済のグローバル化にも、より適合的である。すでに彼らはニュース・アグリゲーターnews aggregatorとして、既存メディア、ジャーナリストからも有用情報を集めて蓄積し、どのような受け手にも、求められた情報を的確に提供する事業を開始している。

新聞販売の仕組みは、販売店が新聞を読者に、本社指定の価格通りに売ることを柱として成り立っている。独占禁止法(独禁法)は、製造元や卸元が仕入れ者の再販売価格(小売価格)を縛って指定することを、原則として禁じているが、新聞・書籍・雑誌には特例として再販売価格維持制度(再販制度)を適用し、小売り段階における全国一律の価格維持を認めているからである。一方で、公正取引委員会管掌の新聞特殊指定(新聞業における特定の不公正な取引方法)は、発行本社および販売店による地域・相手別の差別定価設定の禁止(学校教育教材用の頒布、長期読者・大量一括購読者向けなど、合理的な理由がある場合は例外とする)、発行本社による販売店への押し紙(注文以上の部数を押し込み、販売を強制すること)の禁止を定めている。これらの制度こそ、日本固有の販売制度、ひいては戸別配達制度を支えてきたといえるだろう。

こうして本格的な増ページ、部数拡張競争が始まると、印刷設備の改善・増設が必要になる。第二次世界大戦中から戦後にかけて老朽化した設備は、1950年代の後半から1960年代にかけて一変した。まず大新聞が、明治以来の植字活版工程を漢字テレタイプ、モノタイプの連動によって完全に機械化した。1959年(昭和34)6月から『朝日新聞』は、東京の紙面をファクシミリで札幌へ電送、印刷発行を始めたが、これは世界で初めての試みだった。1960年代に入り、共同通信社が加盟社に記事や資料の漢テレ送信を開始、通信施設の機械化を強力に進めたことから、受信する地方紙の技術革新が急速に進んだ。1960年代後半には『佐賀新聞』がいち早く製作工程の全自動写植化に乗り出し、コールドタイプ化(後述)に先鞭(せんべん)をつけたほか、色刷り印刷設備などにも地方紙は積極的に取り組んでいった。

近代的な新聞が登場するのは、近世・封建社会末期から近代国家の形成期にかけてであるが、それ以前にも、社会的な情報伝達を目的としたさまざまの新聞類似物の存在が伝えられている。もっとも古くは、紀元前5世紀ごろのローマに、地方在勤者にニュースを送るための手書きのニューズレターnewsletterの作成者がいたといわれ、前60年、ローマ執政官カエサルは、政府発表事項を日報の形で毎日掲示する『アクタ・ディウルナ』Acta Diurnaをローマの市場forumに設けたといわれる。15~16世紀ころになると、中世ヨーロッパ社会の流動化過程で、商業情報を主とする新しい情報需要と情報流通が高まりをみせた。そのなかで、ドイツのアウクスブルクの豪商フッガー家がヨーロッパ各地の手書きニューズレターをはじめとする情報を組織的に収集していたことは、とくに有名である。15世紀なかばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明は、情報伝達技術に革命をもたらした。15世紀末には印刷物によるニュースの伝達流通が始まり、ドイツにフルーク・ブラットFlug Blattとよばれる活版印刷による一枚刷りの絵入りニュースの呼び売りが出現している。こうした不定期の手書きのニューズレターや印刷されたフルーク・ブラットが、やがて17世紀に入り週刊定期のニュース印刷物としての近代新聞に発展していく。

国際報道の面でも、日本の国際的地位の向上に伴い、日本の記者がしばしば国際的スクープを流すようになった。1967年11月の「ポンド14.3%切下げ」(共同通信社ワシントン支局)、1969年1月の「イタリア 中国承認」(『日本経済新聞』)、1982年11月の「ブレジネフ死去」(共同通信社北京(ペキン)支局)、1990年2月の「ソ連共産党、独裁を放棄へ」(『産経新聞』)などはその一例である。以後各社は、激動するソ連・東欧の取材を強化、11月には共同通信社モスクワ支局が、ソ連の新連邦条約草案を入手、新国名から「ソビエト」「社会主義」が削除されることをスクープしている。

イギリスの植民地だったシンガポールは1965年の独立後、開放的な通商政策で成功を収めるが、対内的には厳しい情報統制体制を敷く。1920年代に国内および隣接のイギリス領マレーシアで創刊された英字新聞2紙が1983年、政府主導のもとに合併され、華字紙『聯合(れんごう)早報』Lianhe Zaobaoとなり、翌1984年設立の持株会社、シンガポール・プレス・ホールディングズ(SPH)の傘下に入った。SPHは加えて、英字紙『ストレーツ・タイムズ』The Straits Times(1845年創刊)、英字経済紙・夕刊華字紙・マレー語紙各1紙も支配下に置き、事実上、全新聞を押さえている。

世界新聞協会(WAN:World Association of Newspapers)は、2009年7月に国際新聞技術研究協会(IFRA)と合併し、世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA:World Association of Newspapers and News Publishers)となった。従来の名称に「and News Publishers」を付け加え、新聞に拠(よ)らないメディアの営みに従事する人々をも包含する意味をもたせている。また2015年6月に、ワシントンで恒例の世界新聞大会(第67回)開催の運びとなったが、同年より大会名が変更され「世界ニュース・メディア大会」とよばれることになった。ことほどさように新聞紙の影が薄くなり、かわってモバイルの存在が重視される状況になっている。そのうえで、デジタルをいかにマネタイズするかがこれからの新聞社の重点課題だと、世界中の新聞関係者がしきりに論ずるようになった。だが、トランプ現象の例にみるように、市民社会から疎外されたり、自らそれに背いたりする孤立した個人の、ポリュリズムに流されがちな言説空間を、収益第一で肥大させていくばかりだと、それが無責任な独裁者を生み、政治と社会を暴走させていく危険も大きくなる。新聞はいかにしてそこに、真にジャーナリズムの名に値する言説空間を、パートナーとしての市民の自発性にゆだねつつ、生み出していくかを追求していくべきであろう。

2011年3月に起きた東日本大震災により、新聞界は多くの販売店を含む販売網とともに多くの読者を失った。だが被災地において、被災者の安否情報はじめ種々の災害情報を満載した新聞は、人々に争って読まれたという。新聞の取材力、報道・評論に対する信頼性はまだまだ群を抜いている。新聞の記録性、一覧性、保存性、速報性などの特長は、今後も有効に保持されていくことだろう。

1970年代に入ると、コンピュータの利用が進むが、とくに大新聞の大型コンピュータによる新聞製作の研究開発が進み、『日本経済新聞』が1978年3月、活字鉛版方式に別れを告げ、電算写植機を中心とする新聞製作に切り替えた。ついで1979年『信濃毎日新聞』が全ページ出力の電算写植システムを導入、1980年には、朝日新聞東京本社が全面的な電子編集システムの築地新社屋に移転するなど、新聞製作工程は1980年代に入って一変した。

日本の新聞発行部数と1世帯当りの部数の変遷は、表1に示すとおりである。

しかし、ネットとの融合は、ネットの場で働くフリーのジャーナリストの活用を促し、自社のフルタイム記者への依存を弱め、後者の就業人数は着実に減少していく。アメリカ・ニュース編集者協会(ASNE:American Society of News Editors)によれば、2013年の就業人数3万6700人は前年の3.2%(1300人)減で、前年の落ち幅6.2%(2600人)よりは減少が少なくなったが、依然人員削減は続くということである。また、全国紙『USAトゥデイ』など全米に90紙を擁するガネットGannett Co., Inc.が、2015年にさらに新聞やネット・メディアの買収に手を出したほか、シカゴ、ロサンゼルス、ボルチモアに有力紙を抱えるトリビューン・パブリッシングTribune Publishing(2016年6月トランクtronc, Inc.に社名変更)も、サンディエゴの地方紙や週刊新聞8社を傘下に収めた。持株会社方式による大新聞社のさらなる巨大化、寡占化も進行する模様である。

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